「脱学校論」を皆さんは一度でも考えた機会があるだろうか。
私はこれまで何度か「学校は自己否定的な営みでなければならない」という考えを提示してきた。これはある先生に教えて頂いた考えだ。
この文章は私が迷っている文章である。結論が出なくなってしまった。
そもそもはイヴァン・イリッチ氏の「脱学校の社会」東京創元社 1977年 の「学校化された社会(schooled society)」の批判から始まっている。
端的に訳せば、イリッチ氏は
「同じことを学びたい人同士が集まって学び合えばいいじゃないか。
学校のための教育になっているのではないか。」
ということを述べている。
江戸時代、寺子屋では個別学習がなされていた。集団学習ではなかった。
近年、世界は家族を解体して産業を発展させていった事実がある。
一家に一台の3C。
カラーテレビ、クーラー、カー(車)。
日本式の家族が一堂に集まる建築から、ヨーロッパの部屋をセパレートする建築様式を取り入れ、家族一人ひとりに部屋が与えられた。
その結果、
一家に一台→一人に一台となり
家庭のゲーム機なども個々が使えるものへと変化していった。最終形態が現在のスマートフォンやニンテンドースイッチだと捉えている。
今の生活様式と集団で学ぶ形式はミスマッチしているような気がしてならない。誰かと一緒に協働して達成することよりも、ひとりで目標を設定してクリアする方が向いているのではないだろうか。
もしくは自分の興味と近い対象を持つ人々と学び合う方が効果があるのではないだろうか。
と今までは思っていた。しかし、今回、転勤をして学校が子どもの能力開発の中核を担っていることがよくわかった。
うまい言い回しが浮かばないが、
「脱学校化された社会では生きていけない人々がいるのではないだろうか。学校化された社会に助けられている人がいる。」
ということだ。
あーよくわからない文章。まとまっていません。メモ程度に見てください。