自分はRPGの主人公だと仮定しよう。
何日間かは病室から抜け出すこともできず、ベッドの上で足掻く。できることと言えば会話くらいだ。排泄は意思とは関係なく済まされる。夜も痛みで眠れず、食事も制限されている。
これまで私はベッドの上は「快」の状態に誘ってくれるものと信じていた。しかし、今回をきっかけにそうでもないと疑念を抱いた。
術後、多くの制限の中で当たり前の有難さに気がついた。普段、歯を磨く時に、シャワーを浴びる時に、自分の行為を意識しているだろうか。少なくとも私は他のことを考えながらシャワーを浴びていた。そのことから当たり前にできていることは当たり前でないことに気がついた。
道徳的な自分の身体に感謝を、なんていうことは思わないが、自由に身体を動かせることの有り難みを知ることができた。
次に自分ができるようになったことといえば、食事だ。食事を選ぶことはできないが、食べる食べないの選択をすることができる。そして、自分は食べる能力を備えている。もとよりこの能力がなければ選択ができない。
内容を選ぶ自由を早く手に入れたいものだ。
排泄する能力も食事に遅れて身に付けることができた。短い期間ではあったが非常に苦痛に感じる自分がいた。自分がしたい時にできる、これだけで生きているといっても過言ではないのだろうか。そうに違いない。
少しずつ歩行などの能力を得て、本日遂に院内自由行動の権利を手に入れた。
マップが大きく広がった。それはとても。これまでは6階という範囲のみで行動していたが売店やタリーズ、ローソンなどの文化的な恩恵を受けることができるようになった。
しかし、ローソン、タリーズは私の病棟からは少し離れており、足の負担も大きくなるため、まだそこまでは進んでいない。
明日の目標はタリーズでコーヒーを飲むことにしたい。
以前、自由とは?といえ内容で頭を沸かせた時があったが、体験を伴って一つの答えが出た。
行動の選択を自覚しているか
ということである。
また一つ自分の深さを増したと思う。この記事を読んで10年後の自分はどう感じるのだろうか。今高校の時に書いた記事を読むくらいむず痒くなるのだろうか。
ドリンクを手に入れた!
のむ?
はい いいえ
はい
おいしくなかった、、、
選択をしたからといって必ずしもいいものを選べるとは限らない。