http://aty0114.hatenablog.com/entry/2018/07/01/224706
以前「誉めることの副作用」という内容でブログを更新しました。
内容は読んで貰えばと思いますが、人は自分は誉めて伸ばすというプロセスに疑問を持っている系教師です。
たまーに?「学級開きでは必ず誉めます」と断言される先生がいらっしゃいますが、私は疑問に思います。
「誉める」を動機付けとして使えているなら構いません。
しかし、現場で多く見られるのは動機が「誉められる」になっている子どもたち。
動機が「誉められる」パターン
低学年は先生に誉められるために頑張る
そんな子が多いです。
それはまだ価値観が育っていない学齢なのでいいでしょう。十分な理由になります。
しかし、高学年になっても先生に誉められたいから頑張るでは困るのです。
なぜか、それは動機がじぶんの中に存在しないからです。
Aくんが
「よくがんばったね」
を望んで行動しているのであれば、その言葉がなくなった時Aくんは行動を止めます。
当然です。じぶんの中に行動に対する価値観がないのだから。
従って教えるにあたって優先されることは誉める指導よりも価値を考えさせる指導です。
何をやったら誉められて、何をしたら叱られるか、それは人間をプログラミングしているだけにすぎません。
そうではなく
Aという行動をすればBという結果が得られCという蓄積になる。
これが価値観を育てます。
例)
A=掃除
B=綺麗になる
C =気持ちいい、達成感
子どもが育っていないクラスは行動様式が全て担任に依存している、もしくは担任の過保護によるものが原因のほとんどだと思います。
委託できるものは委託して、子どもの自由を広げていくべきだと考えます。
中途半端に誉めるという手段に依存するとただのマシーンが出来上がります。
誉めることはあくまで促進させる程度の働きです。誉めて子どもを伸ばそうなんて考えません。
実力を伸ばさせ、その伸びを実感させるのみです。テストの点数が伸びたら「点数伸びたね!」とだけ言えばいいのです。
余計な飾りはいらないのです。
多分私は他の先生の何倍か子どもに声をかけます。ただし誉めません。ただの会話です。無駄に誉めない。
本当にすごいなと思った時だけ誉めればいいのです。無駄に誉めない。事実、結果が全てに優先されます。
その事実が厳しいものであっても、その状態を変えてやると断言すればよいのです。そして実際に変われば自然とやる気になります。
調理されたものにあれやこれや調味料をかけると元の味がわからなくなってしまうのと同じで、元の味をクリアーに味わって貰えばいいのです。やることはシンプル。
子どもに媚び諂う必要はないのです。
天ぷらに蜂蜜をかけてしまうような教育には滅んでいただきたい。
これと似たような現象で「目的のすり替え」もよく見られます。馬人参みたいなやつ。ここでは言及しませんが。
大人になっても「誉められたい」と言って頑張る人がかなりの数います。
教員には2種類の教員がいます。
一つ目は、教えている自分が好きな教員
二つ目は、子どもが好き、教えることが好きな教員
ちなみに私は天ぷらには塩を振ります。