スローガンについて考えてみる。
私は静かな協議会に出くわすと「あぁ〜」と後悔する。
かといって1人が喋り続ける協議会にも魅力を感じない。教科の研究していますというが、協議会で研究とやらの仮説や目標について還ることは一切しない。
ただのスローガンにしか過ぎない。
例を挙げると、
よく学級目標に
「一人ひとりを大切にするクラス」
最近建設現場で目にする
「凡事徹底」
おそらく両者、具体的な行動が示されていない。「一人ひとりを大切にするクラス」では、後方で発表している子がいるが、クラスメイトは全員黒板の方を向いている。「凡事徹底」を掲げている現場では、作業用の機材が道路に散らばっており、コーンも倒れている。
そのような形だけの言葉に敏感になった。糾さなければならない。中身を伴っていないのに、言葉だけが前に出ている。
歴史上、このような広告、スローガンに人々は振り回されてきた事実がある。
蒙昧な大衆はスローガンに含まれた言葉を吟味せず、直接自己内に取り込んでしまう。(そうせざるを得ない強制力がはたらく場合もあるだろうが)
平気で他者を攻撃したり、相手が悪だと決めつけてしまう。愚かである。
全ての事象は定義される。スローガンも同じだ。
チコちゃんが様々な目に見えるもの、言葉の定義を広めている。
今日は餅と団子の違いについて定義していた。
餅は粒、団子は粉
↓
共に原料は米
違いは状態の差であった。
↓
近年形状によって呼び方を変えており
丸いものは団子
潰れたものは餅
に変わってきているらしい。
話は逸れたが、スローガンは時に中身がなくとも繰り返されることによって、無意味な記号から有意味な記号へ変換される。
恐ろしいことである。
団子を「これは餅です。」
と言われて食べてもそこまで害はない。
「国のためです。銅山を開発しなさい。」
「ユダヤ人はセックスと金に執着する人間以下の生き物です。」
「メガネをかけている者は賢い。」
話は大きくなったが極端な例を見れば伝わる。
中身を伴わないスローガンは無意味、有害なのである。
ネット文化が栄えるに連れ、夥しい情報を得て、正常な判断ができない人が多い。
新聞,雑誌,テレビ報道や インターネット等の情報はすべて正しいと「思う」27%
ネット社会の特性でもある情報の信ぴょう性やなりすましによる危険性等を十分理解していない生徒が多い。
「情報化社会における判断力のある生徒の育成体系的な情報モラル教育を通して 」http://www.niye.go.jp/kanri/upload/editor/8/File/kiyo0812.pdf
中村 哲也 島村 一司
閲覧日2018年12月29日
判断力のある人になるためには、自ら考える習慣が不可欠なのだ。
誰かが言うことを鵜呑みにしてはならない。「鵜呑み」は鵜が丸呑みするから「鵜呑み」であって、人が丸呑みしてはならない。
99人が「正しい」と言っても納得していないのであれば1人で「正しくない」と叫ばなければならない。
同調、共感、共鳴するは迎合するとは全く異なる。自ら判断、決断せよ。丸くなるな。尖れ。
クソはてめーがクソである事を恥じもしないからいつまでもクソだ
世界に一つだけの花だって嘘だ 皆同じ格好したがるのは何故だ
携帯のカメラで撮った写真 別人 他の誰かみたい