経験とは肯定的な意味合いを持つ場合が多い。
例えば、
- 教員の世界では以前6年生を担任していたから担任する不安が軽減される。
- 1年生をやった経験があるからその経験を活かして本年度も勤務します。
- 自閉症の子が文章を書くためには教師が話を書き出して書くと本人の負担が軽減される。
- ○学年の担任をしたことがあるからまた任せよう。
とにかく経験が重視される社会であるのは間違いない。果たして経験は本当に肯定されるものだろうか。
昨年、特別支援級を担任した。
私はAという児童の担任をし、その児童に「少人数で意見を言えるようになる」という短期目標を与えた。
方法は、小グループで「朝食はパンかご飯か」のような簡単な話題で議論させた。
効果があったようで1学期が終わる頃には限られたコミュニティではあったが、その児童は自分の考えを伝えられるようになった。その意欲を持てた。
では経験が肯定される世界で上記の記録はどのようにして扱われるか。
「自閉傾向にある児童には『朝食はパンかご飯か』のような簡単な質問を議論させることで話せるようになる」と扱われるだろう。
成功例である実践を蒙昧に信じて実践するのではないだろうか。
よく「前の学校は」が口癖の経験絶対視人間が
存在するが話していて疲れたことはないだろうか。
患者「少し熱っぽくて...喉が痛くて」
医者「前も似たような症状だったから、今回も同じ薬を処方しよう」
こう言って喉すら見ない。
これは経験を肯定的に捉える場合である。
empirical cism(経験主義)は必ず何か前例を必要とする。逆に言えば前例がなければ行動することができない。
新しいことをするためには経験は捨てるべきなのである。
対象も環境も変わっているならば以前の成功がまた成功するとは限らない。
ましてや、自分以外の人の成功例など鵜呑みにしてはうまくいくはずがないのだ。
勿論パーツとして他者の経験を元に実践するのは実践を豊かにするためには必要だ。
しかし、自分のコアを無くして他人の経験ばかりを吸収しようとしても実践が空虚になるのはあまりにも必然だ。
法則化運動の本をかなり読んでうまくいった授業もあったが、うまくいかない実践の方が多かった。
実践者のそれまでの経験も違えば、扱う言葉も違う。超えた経験は超えた時どうなるのだろうか。
他人に一方的に与えられた価値など何の意味も持たないのだ。