ゴリラがひとになるまで

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その新生生物に切り込めるか

「平成29年度東京学芸大学附属世田谷小学校 研究発表会」

去年も参加し、また1つ先を進んでいると感じました。

 

ここの学校に行くと毎回、カリキュラムの在り方について考えさせられる。

身近なところのカリキュラムの捉え方がそもそも歪んでいることが多い。

 

カリキュラムに沿って指導すれば、効率よく子どもを指導できるもの

この「効率よく」という言葉が皮肉であり、

教師側が努力をしなくてよい、これをしていれば間違いない

と疑うことがない恣意的なツールに貶められているのではないだろうか。

 

これまで私は土作先生の影響で、ミニネタを収集することに重きを置いていた。

ただ、私自身の実践は細切れであり、計画的に指導する必要性を感じた。

 

子どもたちを育てる土台としての意図的なカリキュラム

当たり前ではあるが、突っ込んでいる附属世田谷小はすごい。

 

昨日の分科会でも教科の枠について話し合われたことがあった。

「これは国語か、道徳か」みたいな

 

幸福度1位のデンマークやらは、教科の枠組みをかなり緩くしているという

ことを研修で学んだ記憶がある。

そもそも教科なんて必要ないでーすという国もあるぐらいだ。

 

それだけカリキュラムは自由な側面を持ち合わせているように感じる。

 

議論では「これは国語です」と助言者の先生がおっしゃっていた。

加えて、

「重要なのはこの学習が誰にとって必要であったか」という視点を与えてくださった。

 

まさにその通りだ。

これまでの文化を大切にするのは素敵だが、それよりもその実践が効果的であるかどうかが議論されるべき。そもそも横断的にと言っているのだから。

 

私は清水良先生の子どもに答えを導き出すまで待つというスタンスに強く影響された。

無理やり出させるのではなく、あくまで主体は子ども

 

昨日は子どもが「社会」の捉えについて考えた。

 

「社会」が学校と捉える子もいれば、よりマクロな社会を社会と言う子もいる。

捉え方は人それぞれであるという点まで含めて、リアルな視点であったと思う。

 

以前に、研究発表でない学芸大付属国語科の研修で、清水先生が

「答えはない、でも一緒に悩むことで少し前に進む」とおっしゃっていたことを思い出した。

 

教師になって3年目、あと少しでまとめの時期であるが、

何を自分は教えたいのか少し迷いが生まれてきた。

 

伊藤先生からはしかけ、授業づくりのおもしろさを、

柳澤先生からは指導したことが伝わる喜びを、

トッシーからはおもしろさが子どもを育てることを、

村上先生からはダイナミックな指導を、

土作先生からは態度を育てることを、

松村先生からは一人を大切にする学級の在り方を、

清水先生からは待つことを、

 

でもとこちゃんに「先生っぽくなってる」

って言われたのも、、、

 

だからどんな先生ではなくあくまでも私個人なはず

 

自分の中で1度、収斂させていく時期になってきたんだと思います。

 

今年は自分の実践をまとめることもできたし、

特別支援でそれぞれの子の苦しみにも気づくことができるようになった。

 

クリアーになっていく世界は今までよりも怖いものが多くなる、

その新生生物に恐れずに切り込めるか、

もしくはその状況わかっていながら切り込めずにいるのか、

答えの出ないようなものでも足掻いていくのが人生、

学ぶ意義をそこに見出していきたい。

 

昨日、子どもについて書いたもののつもりだったが、

自分にとっての言葉であった。

 

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おまけに私の昨日学んだ「きく」

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