これまで自信に根拠がないと言われ続けてきました。
今思えば、小学生の水泳大会から。
さすが10歳までには人格形成がなされる、そんなところか。
正直、高校2年生まで本を読むとか勉強するとか大嫌いで
まぁ、今も苦痛になることからは避けていますが…
ただ、教育のプロという職業を選択し、学ぶことの本質をとらえた気がしています。
私にとっての学ぶことの本質とは、
自信の裏付けをしていくことであるでしょう。
私から言わせれば、根拠のある自信ほど怖いものもないような気がします。しかしです。
これまで根拠のなかったものに裏付け、
基準は自分がやっていて楽しいかです。
これだけです。
周りの評価等もあるでしょうけど、自分がやっていて楽しいか、
これに尽きると思います。
ただし、私の中には、おそらくですが、これまでに真の意味でおもしろい、楽しい人と思える人と接した経験があるからこその考えであるはずです。
人には人の乳酸菌があるように、人には人のイデオロギーがあるのです。
俺は俺しかいないというわけです。
子どもが面白くなさそうであれば、自分は楽しいと考えることはできないし、相手が飽きていたらまた別の話題を探ろうとする。
そんな私が好きです。
アドラーさん的には、行動の果てには目的があるらしいので、
自分の行動(学ぶ)の目的について考察してみました。
それともう一つ、
これまで教師という職業をやってきて違和感を感じ続けていたことがあります。それは「子どもを誉める」ということ。
大学生のころから誉めて伸ばすのだ!的なことを教わってきて、実際職場に入ってもそれが常識である。
違和感を感じたことは初任でもった2年生の子の行動、
当時は漢字を大量に書かせるという半拷問的な指導を強いっていた。
私はたくさんのページを書いている子を、
これまで習ってきた「誉める」という評価を繰り返した。
「誉める」という評価は常にこちらから働きかけなければならない。
それが子どもを見ているサインであり、互いが互いを認め合うことであると思っていたから。
しかし、「誉める」ことの副作用が見え始めた。
それまで継続していた優秀者の発表などの評価を1,2週間怠ったのである。
私は、当然子どもは課題をやってくると信用していた。
しかし、予想は裏切られた。
「評価」という媒介を通して、私は子どもを操縦していたに過ぎなかったのである。
外的な力によって作用していただけであった、これはかなり効いた
自分の教育の成果と勘違いしていた
これをきっかけに誉めるという武器は私の中のメインウェポンではなくなった。あくまでも自分の感想を言う。
誰かのためにする努力は真の努力ではない。
自分に還元してこそ真の努力と云えるのではないだろうか。
教育技術としての「誉める」は認める。
ただし、子どもを育てるという目的で使用するのであれば、
「副作用」についても自覚して使用しなければならない。
私はあくまでも子どもを信頼し、行動の価値づけを具体的にしていくのみだ。目的と手段が渋滞する一例ではないだろうか。
今になってようやくすっきりした。
誉めることとは行動に対して、自分の気持ちを伝えることに他ならない!