「〜すべき」という言葉がある。英語であればshould。人の数だけ「〜すべき」はある。例を挙げればキリがないので今日私が使った「〜すべき」を書く。
他人が話をする時に呆けているのは学ぶ姿勢として弛んでいる。話はメモを取って聞くべきである。
こんな話を研修でした。これはあくまで私のイズムであり、これを全面的に受け入れる必要は無い。考えるきっかけにすぎない。しかし、他人の行動に干渉する言葉は圧が強い。
ただボーッと話を聞いているのは脳が弛んでいる証拠である。膝をついて話を聞くのと何ら変わらない。
一人ひとりの言葉を間に受けていたらキリがない。ただし、自分に取り込めるものは取り込むべきなのである。ただでさえ力不足の人間が努力を惜しむのであれば、それ以上の成果は生み出せない。
自分をつくっていくためには様々な事物を吸収していく必要がある。呆けていると自分の周りを何かが過ぎていくだけになる。子どもに鋭敏な感覚を持て、学べと指導するのに教師自身が自己教育ができていない。話にならないのである。
それぞれの理想があれば良い。理想も無く標語を並べているだけであれば子どもは変わらない。体の悪いプロパガンダであれば多少効果はあるかもしれない。しかし、現実は繰り返すことすらもできない。
各人が持っているパラダイムは当然異なり、同じ行動でも評価は変わる。こだわって生きていきたいと思った。